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東京地方裁判所 昭和28年(ワ)8059号 判決

原告 福田和三

被告 国

主文

被告は原告に対して金一万四千九百二十五円及びこれに対する昭和二十二年二月一日からその支払のすむまで年五分の割合による金員の支払をせよ。

原告のその余の請求を棄却する。

訴訟費用は原告の負担とする。

事実

第一原告の求める裁判

「被告は原告に対して金百万円及びこれに対する昭和二十二年二月一日からその支払のすむまで年五分の割合による金員の支払をせよ。訴訟費用は被告の負担とする。」との判決及び仮執行の宣言

第二被告の求める裁判

「原告の請求を棄却する。訴訟費用は原告の負担とする。」との判決

第三原告の主張

一  原告は昭和二十年十二月二十六日中華民国青島において青島総領事喜多長雄に対して中国連合準備銀行券(以下「連銀券」という。)百万円を、山東地区在留連合国人の解放復帰の費用にあてるため、支払は原告と青島総領事館との内地帰館後被告が日本円で速かに行うという約束の下に、無利息で貸与した。

二  前項の貸借が行われるに至つた事情は、次のとおりである。日本軍及び日本政府は太平洋戦争の遂行中において山東地区在留の米、英、蘭等の連合国人約二千七百人を山東省維県に収容軟禁した上、これらの連合国人の居住していた家屋並びにこれに備えつけられてあつた家具及び什器類を、日本軍の管理の下で、日本の軍人及び軍属等の使用に供していた。ところが、太平洋戦争の終了後、青島総領事は連合国軍から、これらの連合国人を直ちに解放し且つその居住していた家屋を日本軍の管理の始められた当時の状態に復元して旧居住者に返還せよという命令を受けた。

当時青島はインフレの状態であつたため、この命令を実行して収容外人の解放復帰の措置をとるには約四億二千万円の費用が必要であつたが、青島総領事館にはその費用にあてる資金がなかつたので青島総領事は直ちに外務省に対して電報をもつてこの費用の内一億五千万円の送金を要請した。ところが、これに対して外務大臣は、青島に対する送金は不可能であるから現地で便宜調達せよという返電を寄せた。青島総領事は窮余の末収容外人の解放復帰に要する費用を青島在留邦人から借り受けようと決意した。そこで、青島総領事館総務課長総領事代理伊関祐次郎及び同経済課長伊藤愿が青島総領事の命を受けて青島日本人会時局特別処理委員会委員木下武之助及び中沢周蔵らと面会し、外務大臣からの前記返電を示して前記の事情を説明した上、青島総領事が青島在留邦人から収容外人の解放復帰の費用にあてるための資金を借り受けたいが、この借用金は内地帰還後日本政府が全責任をもつて速かに日本円で返済するから、時局特別処理委員会においてもこの借上に協力してもらいたいと懇請した。同委員会は事の重大性を考えてこの借上に協力することとなり、木下及び中沢を担当委員として青島在留邦人に対して青島総領事からの要請の趣旨を伝達し、政府に対して手持資金を貸与するよう勧誘させた。原告は木下からの勧誘に基き青島総領事に対して前記のとおり本件貸金を貸与したのであるが、このようにして青島総領事が青島在留邦人から借り入れた金員は総額数億円に達したので、青島総領事はこの借用金をもつて前記収容外人の旧居住家屋を修理し、且つ、これに備えつけられてあつた家具及び什器類で日本軍の管理中に散逸又は破損したものを修理修復した上、収容外人を逐次解放し、昭和二十一年四月頃その復帰を完了させることができた。

三  本件貸金について原告と青島総領事との間で、その支払は日本円で行うという約束が成立していたことは前記のとおりであるが、その換算率については、貸与の連銀券と同額の日本円を支払うという黙示の約束が結ばれていた。すなわち、連銀券の発行当時における日本円との公定交換率は一対一の割合であり、その後この交換率が公式に変更されたことは全然なかつたのみならず、実際にも青島においては終戦の前後を通じて以上の交換率をそのまま適用して取引が行われていたのであつて、本件貸金の際にも原告と青島総領事とはこの交換率を念頭において契約を結んだのである。従つて、被告は原告に対して本件貸金の返済として日本円百万円を支払う義務がある。

四  そして、本件貸金の支払については、原告と青島総領事との間で、原告及び青島総領事館が内地に帰還した後速かに行うという約束ができていたが、原告は昭和二十一年五月二十二日、青島総領事館は同年七月それぞれ内地に帰還し、且つ、原告は内地帰還後しばしば外務省に対して或は原告自身で或は山東引揚者連盟を通じて本件貸金の返還を請求したから、被告は遅くとも両当事者の引揚後六カ月を経過した後である昭和二十二年二月一日には本件貸金の返済につき履行遅滞の状態にあつたものということができる。

五  以上の次第で、被告は原告に対して本件貸金の返済として金百万円及びこれに対する昭和二十二年二月一日からその支払のすむまで民法所定の年五分の割合による遅延損害金を支払う義務があるから、原告は被告に対してこの義務の履行を求める。

六  被告の第二項の主張に対しては、その主張事実を否認し、なお次のとおり主張する。

青島における邦人の引揚及びその援護の事業は、青島総領事館からの援助をまたず、一切民団(後の民会)自身の手で行われた。すなわち、民団は昭和二十年十一月下旬引揚の第一次引揚乗船者からは一人当り千元、同年十二月上旬引揚の第二次引揚乗船者からは一人当り二千元、同年十二月下旬以後引揚の第三次引揚乗船者からは一人当り五千元の寄附をつのる等の方法で、青島在留邦人約三万七千人から二億元以上の金員の提供を受けた。そして、この金員を一切の引揚援護の費用及び民会職員の生活費等にあてて邦人の引揚及びその援護の活動に当つたのであり、青島総領事館が費用を支出して引揚援護の衝に当つたことはない。なお、民団はその手持資金を引揚援護の費用にあててもなお余りがあつたので、この内千五百万元を青島在留陸軍部隊に、五百万元を同海軍部隊に、五百万元を対外接衝費にあてるため青島総領事館にそれぞれ自発的に提供した程であつた。

七  被告主張の第三項の事実のうち、被告主張の一連の法律が施行されたこと及び原告が昭和二十六年三月十日被告から本件貸金について被告主張のとおりの確認証書の発給を受けたことは認めるがその余は否認する。

八  被告の第四項の主張に対しては、その主張事実を否認し、なお次のとおり主張する。

在外公館等借入金整理準備審査会法(以下「審査会法」という。)在外公館等借入金の返済の準備に関する法律(以下「準備法」という。)及び在外公館等借入金の返済の実施に関する法律(以下「実施法」という。)は「太平洋戦争の終結に際して在外公館又は邦人自治団体若しくはこれに準ずる団体が引揚費、救済費その他これらに準ずる経費に充てるため」に借用した資金についてのみ適用されるのである。ここにいわゆる「引揚費、救済費」とは外地在留邦人を内地に引き揚げさせるために要する費用及び内地引揚までの間これらの邦人中の生活困窮者に対する救済のために要する費用を指すものであり、また「これらに準ずる経費」とは在留邦人のために使用される費用であつて引揚費又は救済費に準ずるものを指すものと解さなければならない。在外公館等の借入金が以上の「引揚費、救済費その他これらに準ずる経費」にあたるものであるかどうかは、借入の際直接の目的とされたことがらによつて決定されるべきものであつて、その間接的な影響によつて判断すべきではない。本件貸金は収容外人の解放復帰という連合国に対する日本政府の義務を遂行するための費用にあてることを直接の目的として貸与されたものであり、又実際にこの義務の遂行のための費用にあてられたのであつて、この費用の性質はいわば日本政府の終戦処理費に該当するものということができるから、本件貸金が在留邦人に関する経費として使用されたものと解することは到底許されない。従つて、本件貸金について審査会法準備法及び実施法が適用される余地はない。

九  被告の第五項の主張に対しては、次のとおり主張する。

1  旧外国為替管理法その他被告の挙示する法規は、外地で外貨をもつて借り受けた金員を内地で邦貨をもつて返済するについて、大蔵大臣の許可のない場合には、その返済を禁止するという趣旨のものではない。のみならず、実際上も本件貸金契約の成立した当時青島と日本内地との間における資金の交流は、大蔵大臣の許可がなくても自由に行われていたのであるから、本件貸金の弁済については被告の挙示する法規の適用はない。

2  仮に旧外国為替管理法が本件貸金に対し適用されるとしても、同法は同法所定の大蔵大臣の許可を受けない契約を無効としこの契約に基く義務の履行を免れしめるという趣旨のものではないから被告は原告に対して、大蔵大臣から許可を受けて本件貸金を弁済する責任があるのであつて、この許可のないことを理由として本件貸金の返済の義務がないという被告の主張は失当である。

3  仮に被告主張のとおり大蔵大臣の許可がなければ被告は本件貸金を弁済する義務がないとしても、青島総領事が本件貸金の貸与を受けたのは、日本政府の代表機関である外務大臣が、為替管理許可事務を担当する大蔵省の同意を得た上で、青島総領事に対して前記訓電を発し、後日内地において日本政府が邦貨をもつて返済するという約束で青島において外貨の借入をするよう命じたことに基くものである。従つて、本件貸金はその返済について旧外国為替管理法所定の大蔵大臣の許可があつたものと解するのが相当であるから、被告の主張は失当である。

十  被告主張の第六項の事実は否認する。被告のいうような調整金制度は、青島においては全然実施されなかつたから、かような制度を根拠として連銀券と日本円との交換率を考えるべきではない。

十一  仮に本件貸金が実施法所定の「借入金」に該当するとしても、次の理由により実施法第四条及び別表は憲法に違反する無効の法律であるから、本件貸金債権の内容がこの法律によつて左右されるいわれはない。

1  まず、実施法第四条及び別表は、借入金額と支払金額との比率を連銀券百円に対して本邦通貨一円三十銭の割合によると定めているけれども、これは債務額と支払額との換算率を貸主にとつて著しく不当不利益に定めたものといわなければならない。借入金債務について為替相場に代る換算率として現地と東京との米価の比率を採用すべきものであるとしても、この米価については青島方面における借入最盛期である昭和二十一年一月から同年三月までの現地における米価と被告が実施法を施行して現実に借入金債務の弁済をすることができるようになつた昭和二十七年三月三十一日当時の東京における米価を基準として換算率を決定しなければ、貸主に対して貸金と同一等価のものを弁済し債権の満足を与えることができたと考えることはできないのである。ところが、実施法別表の換算率は、昭和二十一年一月から同年三月までにおける現地と東京との米価の比較に基いて作成されているのであつて、かような換算率の決定の仕方は著しく不合理であつて違法のそしりを免れない。のみならず昭和二十一年三月における東京の米価小売公定価格は、農林省告示同年第四四号によると十キログラム金十九円五十銭であつたが、昭和二十七年三月におけるそれは同省告示同年第一六一号によると十キログラム金六百二十円に達し、約三十一倍の謄貴を示しているから、実施法別表の換算率によつて算出された金額に同法第四条によつて百分の百三十を乗じた金額を返済するとしても、この返済額の実質価値は、貸主が提供した連銀券の実質価値の僅か二十四分の一に相当するに過ぎない。従つて、被告がこのような少額の弁済によつて借入金債務を免れようとすることは、民法第一条に規定する信義誠実の原則に反し、しかもこの原則は法律全体を貫く大原則として憲法第十二条、第十三条に照応するものであるから、結局実施法第四条及び別表は憲法のこれらの規定の精神に反する違憲立法といわなければならない。

2  このように被告が在外公館等の借入金につき貸主の意思を無視して一方的に不合理な換算率を定め、しかもその返済額を一人当り五万円に制限することを実施法第四条において定めたことは、財産権の不可侵を保障する憲法第二十九条第一項に違反する立法であり従つて実施法第四条及び別表はこの点においても無効の法律というべきである。

3  実施法第四条及び別表は、既述のとおり憲法の条規に反する立法であるが、この立法が憲法第二十九条第二項の規定をもつてしても合憲の立法と考えることのできないことは、次に述べるとおりである。

(一) まず、本件貸金債権は憲法施行前において既に成立していた債権であるから、これについて公共の福祉を理由として憲法第二十九条第二項を適用して制限を加えることは、法律不遡及の原則に反するものである。

(二) 次に、本件貸金債権は純然たる私法上の貸金債権であり、被告は一私人と同一の立場において原告との間で私法上の契約に基き債務を負担したものである。かような立場にある被告が、一方において国家として権力的地位を保有していることを利用して、国家財政上の理由の下に公共の福祉の名をかりて一方的に自己の債務を免れるような立法をすることは、法治国においては断じて許すべからざることであり、憲法第二十九条第二項はかような立法をも合憲とする趣旨の規定では決してない。

(三) のみならず、本件貸金を含む在外公館等の借入金の返済額を実施法によつて制限することは、決して公共の福祉に適合するゆえんのものではなはない。すなわち、五万円以上の支払を要する在外公館等の借入金は、総件数二千二百件であつて、その返済額の制限によつて節約される額は僅か四億四千万円である。これを昭和二十七年度総予算八千五百二十七億円、自然増収三百億円に対比するときは、九牛の一毛に過ぎないのであつて、在外公館等借入金を契約の趣旨どおりに返済しても、国家財政に与える影響は極めて僅少であるというよりほかはない。かような借入金の返済を国家財政上の必要を名として実施法をもつてその制限を策する被告の態度こそ、かえつて公共の福祉に反すること極めて明白である。

(四) 憲法第二十九条第二項は、公共の福祉の面からの要請が認められる場合においても、私人の財産権の否定又は否定に類するような措置を講ずることを許す趣旨の規定ではない。この規定によつて許されるのは、例えば経済的大恐慌の際に支払猶予を命ずるが如く、財産権の内容を公共の福祉に適合するように定め、もつて財産の使用収益処分に対して部分的ないし一時的な停止の措置を講ずることに限られるのである。ところが、実施法は在外公館等借入金返還債務について実施法所定の額以上の支払はすべて打ち切るという立法であつて、その限りにおいては私有財産権を否定する立法といわなければならないから、他にいかなる理由があるにもせよ、実施法が憲法第二十九条第二項によつて合憲の法律であると考えることはできない。

(五) なお、右在外公館等の借入金は、たとえそれが在留邦人の引揚援護の費用に使用されたとしても、在留邦人の保護は元来国家の責務の一であり、これに要する費用は当然国の負担に帰すべきものであつて、貸主を含む在留邦人の共益費用たる性質のものにとどまらない。従つて、在外公館等借入金が在留邦人のみに関する費用にあてられたから、当該、在留邦人のみがこれを負担すべきもので、一般国民にその負担を転嫁すべきではないという理由によつて、その返済について憲法第二十九条第二項によつて規整を加えるのが当然であるというような議論は間違いであるといわなければならない。

4  次に、実施法において在外公館等の借入金の返済額を制限したのは、憲法第十四条にも違反する違憲立法である。在外公館等の借入金は太平洋戦争の終了後において終戦処理の費用にあてるため、被告が借り受けた純私法上の貸借金であつて、太平洋戦争と直接関連する日本政府の債務すなわち戦時補償特別措置法によつて打ち切られるべき債務とは性質を異にする。従つて、在外公館等借入金債務に対して制限を加えるとすれば、被告の負担する他の私法上の債務全般についても、これと同様の制限を加えてはじめて平等且つ公平な措置ということができるのである。被告の負担する他の私法上の債務について特に制限が加えられていない以上、実施法において在外公館等借入金債務のみについて制限を加えるのは、憲法第十四条に違反する。更に日本政府は、太平洋戦争の敗戦の最大責任者である旧軍人の恩給を復活して、その上層部を厚遇し、又太平洋戦争による被害を受けなかつた非戦災者に対しては、いうに足りない程の非戦災者特別税を課するにとどめて置きながら、内地で戦災にあつた者とは比較にならない程甚大な被害を受け裸一貫で帰国した引揚者に対しては、その被害の補償を計るのが当然であるのに、何一つ救援の手を延べないばかりか、せめて在外公館等に貸与した金員だけでも完全に支払を受けて復興の資としようという引揚者一同の期待を裏切り、実施法によつてこの借入金の支払を打ち切つたのである。かように、引揚者の有する債権のみについて不利益な取扱をする実施法は、国民の平等を保障する憲法第十四条に反する違憲立法であり、その効力は否定されるべきである。

第四被告の主張

一  原告主張の第一項の事実のうち、原告が昭和二十年十二月二十六日中華民国青島において青島総領事喜多長雄に対して連銀券百万円を、支払は被告が日本円で行うという約束の下に、無利息で貸与したことは認めるが、その余は否認する。

第二項の事実のうち、日本軍が太平洋戦争の遂行中において山東地区在留の米、英、蘭等の連合国人約二千七百人を山東省維県に収容軟禁していたこと、これらの連合国人が居住していた家屋並びにこれに備えつけられてあつた家具及び什器類が日本軍の管理の下で日本の軍人及び軍属等の使用に供されていたこと、太平洋戦争の終了後青島総領事が連合国軍から、これらの連合国人を直ちに解放し、且つその居住していた家屋を日本軍の管理の始められた当時の状態に復元して旧居住者に返還せよという要求を受けたこと(但し、この要求は命令ではなく勧告であつたに過ぎない。)、青島総領事が直ちに外務省に対して電報をもつて、収容外人の解放復帰に必要な費用の送金を要請したこと、伊関祐次郎が青島総領事館総務課長総領事代理であり、又伊藤愿が同経済課長領事であつたことは認めるが、その余は否認する。

第三項の事実のうち、連銀券の発行当時における日本円との公定交換率が一対一の割合であつたことは認めるが、その余は否認する。

第四項の事実のうち、青島総領事館が昭和二十一年七月内地に帰還したこと及び原告が内地帰還後しばしば外務省に対して本件貸金の返還を請求したことは認めるが、原告が内地に帰還した日が昭和二十一年五月二十二日であることは知らない。その余は否認する。

二  本件貸金は、次の事情に基き、青島総領事が在留邦人の引揚援護の資金にあてるために借り受け、且つ、この費用に使われたものである。

1  太平洋戦争の終了とともに日本軍の占領地域内に在留していた邦人は、連合国からの命令によつてすべて内地に送還されることとなつたが、日本政府としては、これらの邦人の引揚救済に要する費用がどの位の額に達するか予測することができなかつたので、この費用の全額を国庫負担として予算に計上することが困難であり、仮にこれについて予算措置がとられたとしても、これを現地に送金することは不可能であつたため、やむをえず、この費用は現地の総領事館等において予算費目の流用とか在留邦人からの寄附ないし借入とか便宜の方法で調達支弁させる以外にはないという事態に直面した。しかも、この費用を在留邦人から借り受ける場合、この借用金を通常の消費貸借による借用金と同じ取扱をして、一定の弁済期にその全額を国庫から支払うものとすることは、予算の計上及び議会の協賛を経ていない関係上、日本政府においてこれを確約することはできない立場にあつた。そこで日本政府は、この借入金の大部分がその性質上国庫の負担とする以外にはなく、従つてこの費用を国庫から支弁するについては、将来議会において必ず適当な対策が講じられるであろうという予想の下に、外務大臣において各地の在外公館に対して、在留邦人の引揚に要する費用は相当多額に上るであろうと思われるが、政府の現状ではこの費用につき予算上の措置をとつて現地に送金することはできないけれども、この費用の大部分は結局国庫負担とする以外にはなかろうと予想されるから、その趣旨でこの費用は現地においてあらゆる便宜的方法をとつて調達支弁してもらいたいという訓電を発した。この訓電の趣旨は、在留邦人の引揚援護に要する資金は将来正規の手続を経て国庫からその支払をすることができるようになつたときにその限度で返済をするという条件で在留邦人から借り入れるように指示したものである。

2  青島においては、青島自体経済力も豊であつて、青島在留邦人のみの引揚費用にこと欠くところはなかつた。しかし、奥地から青島に避難して来る邦人の救済及び引揚については相当の費用が必要であろうと予想されたので、青島総領事は、前記訓電に基き原告を始め多くの在留邦人から、奥地からの避難者の救済及び引揚の費用にあてる目的の下に、連銀券を後日政府の定める条項に従つて国庫から返済するという約束で借り受け、この借用金をもつて奥地からの避難者の引揚援護の費用にあてたのである。

3  以上の次第で、本件貸金は在留邦人の引揚援護の費用にあてるため貸与を受けたものであつて、原告のいうように収容外人の解放復帰の費用にあてるため貸与を受けたものではない。この収容外人の解放復帰とかこれらの外人が居住していた家屋及びこれに備えつけられてあつた家具什器類の修復とかは、昭和二十年十月頃までに既に完了していたのであつて、この費用は青島総領事館が終戦前物価統制の行われていなかつた地域でたばこ等を販売させていたときその益金の一部を納入させる等の方法で蓄えていた資金をもつてまかなつたのである。

三  日本政府は、以上のように在外公館が終戦の際在留邦人の引揚費、救済費その他これらに準ずる経費にあてるために在留邦人から借り受けた金員の返済について国会の議決を求めることに努力し、その結果審査会法、準備法及び実施法が施行されるに至つた。そこで、被告は本件貸金について、原告が昭和二十五年二月十一日提出した借入金確認請求書に基き、審査会の審定を経て昭和二十六年三月十日外務大臣から原告に対して確認証書を発給し、実施法所定の返済金一万三千円をその所定の手続の下で返済するよう一切の措置を完了した上、原告に対して本件貸金の返済の通知をしてその受領を求めたが、原告はこの受領の手続をとらないで今日に至つている。

四  仮に本件貸金が原告主張のとおり収容外人の解放復帰の費用にあてるために貸与を受けたものであるとしても、この費用は在留邦人の引揚費や救済費に準ずる費用に当るといわなければならないから、本件貸金については実施法が適用される。

原告主張の連合国軍からの要求は、日本側が速かに収容外人の解放復帰の措置を講じなければ在留邦人の引揚も困難になるであろうという強制の下に行われた勧告であつた。そこで、青島総領事は現地の情勢から判断して、在留邦人の引揚援護を円滑に行うためには収容外人を速かに解放復帰させることが必須不可分の工作であると考えた結果、在留邦人の引揚を促進する緊急措置として、収容外人の解放復帰に当つた。従つて、これに要した費用は、在留邦人の引揚援護のための工作費であり、在留邦人の救済費ないし引揚費に準ずる経費というべきものである。

五  仮に本件貸金について実施法の適用がないとすれば、次のとおり主張する。

1  本件貨金契約は、外地で借り受けた外貨表示の債務について内地で邦貨をもつて支払うことを約する点において、昭和十六年法律第八十三号外国為替管理法第一条第四号又は同条第十二号に基き同年大蔵省令第十号外国為替管理法施行規則第十一条第一項第二号により大蔵大臣の許可を受けなければできないものであり、これに違反して締結された約束である。従つて、昭和二十年勅令第五百七十八号「昭和二十年勅令第五百四十二号ポツダム宣言ノ受諾ニ伴ヒ発スル命令ニ関スル件ニ基ク、金、銀又ハ白金ノ地金又ハ合金ノ輸入ノ制限又ハ禁止等ニ関スル件」第一条第二項によつて無効であるから被告は本件貸金につき内地で邦貨をもつて弁済する義務がない。

2  仮に本件貸金契約が有効であるとしても、本件貸金を内地で邦貨をもつて支払うことは、外国為替管理法第一条第四号又は同条第十二号に基き同法施行規則第十一条第一項第二号及び昭和二十年大蔵省令第八十八号「外国為替管理法第一条及昭和二十年勅令第五百七十八号金、銀若ハ白金ノ地金又ハ合金ノ輸入ノ制限又ハ禁止等ニ関スル件第一条ノ規定ニ依リ金、銀、有価証券等ノ輸出入等ニ関スル金融取引ノ取締ニ関スル件」第二条第三号によつて、大蔵大臣の許可を受けなければこれを行うことができないものであり、これについて大蔵大臣の許可がないから、被告は本件貸金を支払うことができず、従つてその義務もない。

六  仮に被告が、実施法所定の制限とは無関係に、本件貸金を日本円で弁済する義務を負うとしても、次に述べるとおり本件貸金契約の当時連銀券と日本円との換算率は一対一ではなかつたから、被告は原告に対して本件貸金に対する弁済として日本百万円を支払う義務はない。

連銀券は元来日本円を実質上の担保として発行され、昭和二十一年六月末中国政府によつてその流通を禁止されたものであつて、その発行開始の際日本円との公定交換率は一対一であつたけれども、太平洋戦争の進行に伴い、連銀券はその発行高が次第に増加し、それとともにその実質価値は下落した。そして、終戦前においては、連銀券の日本円に対する公定交換率は現実の取引における実勢比価との間で著しい開きを見せていたので、中国から内地に対する公定交換率による資金の流入を無制限に認めるときは、内地においてインフレーシヨンが醸成されるおそれがあつた。そこで、その防止のための連銀券による取引については、その実勢比価に応じて貿易管理や外国為替管理の面で種々の対策が講じられ、この対策の一として昭和二十年八月十三日から連銀券についても調整金制度が実施されるに至つた。この調整金制度とは、外国為替管理法所定の外国に対する送金又は外国からの送金を内地で受払するにつき大蔵大臣の許可の基準として、従前中国から内地に送金するには送金額に応じてその十倍以下の現地通貨を預金させ、その引出又は処分を禁止する等の措置が行われていたのを改めて、昭和二十年八月十三日大蔵省外資局長発通牒第七七一二号をもつて、北支から内地に送金するには一人一カ月金五十万円の送金を限度とし、且つ、その送金の際には送金額の五十倍(但し許可を受けた場合には二十倍)の調整金を為替銀行を経て外資金庫に納付させ、又内地から北支に送金するについては大蔵大臣の指定する特別の場合以外はすべて、現地で受払をするときに相当額の調整金を支払わせることと定めたものである。以上のとおり、連銀券は実際上日本円との間で一対一の取扱を受けていなかつたのであるから、原告は被告に対して本件貸金すなわち連銀券百万円と同額の日本円の支払を求めることはできない。

七  原告の第十一項の主張に対しては、次のとおり主張する。

元来在外公館等借入金の返済は、外地において外貨で借り受けた金員を内地で邦貨をもつて支払うことになるため、外国為替管理法所定の大蔵大臣の許可を必要とするものであつて、実施法はこの大蔵大臣の許可に代るべき性質を有するものである。従つて実施法において借入金の返済時期及び返済方法をどのように決定しても、これを違法と非難する余地はないのであるから、実施法が憲法違反であるという原告の主張は失当である。むしろ、実施法第四条及び別表は借入金を国民負担の公平を考慮しつつ国家財政の許す限度において国庫から返済することを規定した点において、憲法第二十九条第二項に適合する合憲の法律である。

1  まず、連銀券と日本円との換算率が実施法によつて百円対一円三十銭と定められたのは、在外公館等借入金評価審議会において公平妥当を旨として慎重に検討を加えた結果、華北地域における借入最盛期であつた昭和二十一年一月から三月までにおける現地の米価と東京の配給米四割闇米六割をもつて算出した米価との比較を根拠として算定した換算率に基いて決定されたのであつて、この決定に当つて貸主に対して不当不利益な取扱が加えられたことは全然ない。かように換算率の決定に当つて借入最盛時における米価の比較を基準としたのは、連銀券が中国政府によつて昭和二十一年六月末限り流通を禁止され、借入金返還債務の履行期すなわち実施法の施行時期においては連銀券と日本円との為替相場がないこと、もしこの為替相場に代るべきものとして幣制改革の経過をたどつて連銀券と日本円との交換率を算出するときは、連銀券百万円に対して日本円六円の割合となつて実情に適合しないばかりか貸主にとつて著しく不利益な結果を生ずること及びこの換算率の決定に当つて終戦当時における公定交換率を基準とする場合には、現地において著しい物価騰貴が発生していたので、貸主に対して不当な利益を与えるに至ること等の事情を考慮に入れて、結局借入最盛時における連銀券と日本円との購買力の比較によつて換算率を決定することが最も合理的であると認めたからにほかならない。勿論この購買力の比較に当つては、なるべく多数の品目にわたつて調査を行うのが理想的であるけれども、借入最盛時においては内地も現地も未曽有の混乱状態にあり、比較検討の資料が貧弱であつたため、最も資料の豊富であつた米価に基礎を置かざるをえなかつた次第である。従つて、実施法所定の連銀券と日本円との換算率は、決して不合理なものでもなければ、不当なものでもない。

2  次に、実施法第四条は、借入金の返済額を一人当り金五万円で打ち切ると定めているが、これは準備法第二条において「政府は借入金の返済を行うため借入金を表示する現地通貨の評価基準、返済方法その他借入金の返済に関し必要な事項を定める法律案を準備法施行後最初に召集される国会に提出しなければならないが、その法律案において借入金の返済の方法は国民負担の衡平の見地から公正且つ妥当な基準に基いて定められなければならない。」と定められた趣旨に従い、国民負担公平の見地から戦時補償特別措置法の適用を受けた者、在外財産を失つた者等との衡平を考慮して五万円の制限を設けたものであつて、これは憲法第二十九条第二項に適合する立法措置である。けだし、在外公館等借入金が日本政府の負担に帰すべき性質のものであるとしても、これは太平洋戦争に直接関連して借り入れられたもの、詳言すれば、太平洋戦争の敗戦により必要となつた在留邦人の生活維持及び引揚救済の費用にあてるため応急的に借り入れ且つ費消されたものであつて、従つて借入金返還債務は終戦に伴つて生じた費用捻出のため政府が負担した債務と解すべきものである。ところで、戦争に直接関連して政府又は政府に準ずるものが負担した債務については、戦時補償特別措置法等によつて実質上打切の措置がとられたのであるが、在外公館等借入金返還債務は戦時補償債務と同じ性質のものといわなければならないから、在外公館等借入金につきこれを整理する措置をとらないことこそ、かえつて公平を害するというべきである。しかも、在外邦人の大部分は財産のほとんど全部を外地に失つて帰国し、外貨を内地に持参又は送金することはほとんどできなかつたのであつて、在外公館等借入金について内地での支払が認められることは実質上外地の財産の一部を内地に持ち帰つたのと同じ結果になるのであるから、この点から考えると、引揚者間における被害の公平を計ることが必要且つ適切な措置であるといわなければならない。以上の事情を考慮するときは、在外公館等借入金の返済について制限を加えることこそ、公共の福祉に適合するゆえんのものであり、このことは例えば内地における戦災者と非戦災者との間における負担の公平を計るため非戦災者特別税が設けられたことと相通ずるものである。なお、在外公館等借入金は貸主を含む在留邦人の共益費用たる在留邦人の引揚援護の費用にあてられたものであつて、本来在留邦人が受益者として実質上の負担をすべき性質の金員である。従つてこれについて在外公館による借受の形式をとつたとしても、その実質的負担を被告、従つて一般国民に無条件で転稼することは、国民経済の現状から考えると不当である。のみならず、在外公館以外のもの例えば邦人自治団体等が在留邦人の引揚援護の費用として借り受けた金員と在外公館の借入金とを対比して見ても、両者はその実体が同じであるにもかかわらず、在外公館の借入金について国が全額の支払をしなければならないというのは不当であり、結局本件の借入金は通常の政府借入金とは性格が異るのであるから、その性格に応じて実施法がその返済に制限を加えたのは、妥当な措置であるといわなければならない。

第五証拠

原告は甲第一、二号証、第三号証の一、二(但し、第三号証の一、二は写)を提出し、証人福岡陽道、木下武之助、安藤栄次郎、中村猪之助の各証言及び原告本人尋問の結果を援用し、乙第一号証の原本の存在及び成立並びに第三号証の一、二の成立は知らないと述べ、乙第二号証の成立並びに乙第四号証から第六号証まで、第七号証の一から九まで、第八号証の一から七までの各原本の存在及び成立を認めた。

被告は乙第一、二号証、第三号証の一、二、第四号証から第六号証まで第七号証の一から九まで、第八号証の一から七まで(但し、乙第二号証、第三号証の一、二を除く乙号各証はいずれも写)を提出し、証人伊藤愿、安藤直明の各証言を援用し、甲第一、二号証の成立並びに甲第三号証の一、二の原本の存在及び成立を認めた。

理由

一  原告が昭和二十年十二月二十六日中華民国青島において青島総領事喜多長雄に対して連銀券百万円を、支払は被告が日本円で行うという約束の下に、無利息で貸与したことは、当事者間に争がない。

そして、原本の存在及び成立に争のない甲第三号証の二及び乙第四号証並びに証人伊藤愿の証言によつて原本の存在及び成立を認めることのできる乙第一号証及び証人安藤直明の証言によつて成立を認めることのできる乙第三号証の二と証人福岡陽道、木下武之助、伊藤愿、安藤直明及び安藤栄次郎の各証言(但し、証人福岡陽道、木下武之助及び安藤栄次郎の各証言は、後記の信用できない部分を除く。)並びに原告本人尋問の結果とを総合すると、喜多総領事が原告から本件貸金を借り受けるに至つた事情は、次のとおりであることが認められる。

太平洋戦争の終了後間もなく青島総領事館は、同館の経費、すなわち、華北地区在留邦人の引揚その他同領事館の担当事務を処理するための費用に不足を来したので、外務省に対してその送金を電請した。ところが、外務省では太平洋戦争の終了とともに日本政府から在外公館に対して公館の経費を送金することができなくなり、且つ、当時外地の情報がほとんど入手できなかつたので、日本軍の占領地域に在留していた邦人の引揚がいつからいつまで行われるかを察知することもできず、この引揚に要する費用がどれ程の額に達するのかも判明しなかつたので、この費用について予算上の措置をとることさえもできない状態であつた。そこで外務省は、この費用を現地の総領事館等で予算費目の流用とか在留邦人ないし現地の日本の銀行からの借入とかの便宜的方法によつて調達支弁させようという方針を立て、昭和二十年九月七日外務大臣の名前で各在外公館に対して、在留邦人の引揚救済に要する費用は相当多額に上るであろうし、又その大部分は国庫の負担とする以外にはなかろうと予想されるが、これについて予算上の措置をとることも、又これを送金することも困難な状態であるから、差し当つて現地においてあらゆる便宜的方法を講じて調達支弁してもらいたいという訓電を発した。

青島総領事館はこの訓電を受け取つたので、華北地区在留邦人の引揚救済等同領事館において担当すべき事務を処理するために必要な費用を在留邦人有志からの借入によつて賄うという方針を定め、同年九月上旬頃喜多総領事が同館総務課長総領事代理伊関祐次郎(伊関祐次郎が同館総務課長総領事代理であつたことは当事者間に争がない。)とともに、青島日本人会時局特別処理委員会の委員であつた訴外中沢周蔵、木下武之助及び安藤栄次郎の三名と面会した。そして、外務大臣からの訓電を示して前記の事情を説明した上、青島総領事が青島在留邦人から総領事館の渉外費、終戦処理費及び館員の生活費等にあてるため資金を借り受けたいが、この借入金は貸主が日本内地に帰還したのち日本政府において速かに日本円で返済することになつているから、同委員会においてもこの借入に協力してもらいたいと要請した。そこで同委員会は前記木下ら委員数名を担当者として、青島在留邦人に対して喜多総領事からの要請の趣旨を伝達し、政府に対して手持資金を貸与することを勧誘させ、一方、喜多総領事は朝鮮銀行青島支店にこの借入の事務を委任し、原告をはじめ多数の在留邦人から連銀券を借り入れ、その総額は約四億円に達した。そして、青島総額事館はこの借入金を、華北各地から青島に避離集結して来た邦人の引揚及び生活援護の費用等にあてた。

原告は木下から、青島総領事館で金が必要であつて、貸主が日本内地に帰還したのち日本政府において速かに日本円で返済するという条件で邦人からの借入を希望しているから出してやつてもらいたいという勧誘を受けたので、この金を総領事館がどのような使途に用いるのかは格別せんさくもしないで、朝鮮銀行青島支店で青島総領事に連銀券百万円を貸与する手続をとつた。

証人福岡陽道、木下武之助、安藤栄次郎及び中村猪之助の各証言のうち以上の認定に反する部分は信用できないし、ほかに以上の認定を左右するに足りる証拠はない。

原告は喜多総領事が、太平洋戦争の遂行中山東省維県に収容軟禁されていた山東地区在留の米、英、蘭等の連合国人を解放し、且つその居住していた家屋を復旧返還するための費用にあてることを唯一の目的として原告から前記金員を借り受けたのであり、しかも実際にこの連合国人の解放復帰のためにのみ使用されたものであると主張し、日本軍が太平洋戦争の遂行中において山東地区在留の米、英、蘭等の連合国人約二千七百人を山東省維県に収容軟禁していたこと、これらの連合国人の居住していた家屋並びにこれに備えつけられてあつた家具及び什器類が日本軍の管理の下で日本の軍人及び軍属等の使用に供されていたこと、太平洋戦争の終了後青島総領事が連合国軍から、これらの連合国人を直ちに解放し、且つその居住していた家屋を日本軍の管理の始められた当時の状態に復元して旧居住者に返還せよという要求を受けたこと及び青島総領事が直ちに外務省に対して電報で収容外人の解放復帰に必要な費用を送金してもらいたいと要請したことは当事者間に争がない。そして、証人福岡陽道、木下武之助及び安藤栄次郎の各証言によると、喜多総領事が昭和二十年九月上旬頃伊関総務課長とともに青島日本人会時局特別処理委員会の委員達と面会した際に、この連合国人の解放復帰の話も持ち出され、総領事館側よりこの復帰に要する費用も足りないから貸与してもらいたいという要請のあつたことも認められる。しかしながら、証人伊藤愿の証言によれば、青島総領事館は同年九月末までこれらの連合国人の解放復帰のためその宿泊設備を整えたり食料を手配する等の事務を行つていたが、同月末同領事館における公務の執行が事実上全く停止してしまつたので、同領事館としてはこの解放復帰の事務を同月末限り打ち切つてしまつたことが認められ、従つて同年十二月二十六日喜多総領事に貸与された本件貸金がこの連合国人の解放復帰の費用にあてることを唯一の目的として借り入れられたものとはとうてい考えられないから、原告のこの主張は失当である。

二  以上に認定した事実によると、本件貸金は在外公館が終戦の際在留邦人の引揚費及び救済費にあてるため在留邦人から借り受けた借入金であることになり、被告の主張するとおり審査会法にいわゆる「借入金」に該当するものということができる。しかしながら、被告としては、外務大臣からの前記訓電に基き喜多総領事がさきに認定したとおりの事情で原告との間に本件貸借を行つた以上、これについてその責に任じなければならないことはいうまでもないところであつて、この義務は被告の主張する審査会法、準備法及び実施法が制定施行されることによつてはじめて生ずるものではなくて、前記貸借契約そのものから発生するものといわなければならない。従つて、原告が被告主張のとおり審査会法所定の確認証書の発給を受けたことは、当事者間に争がないが、この確認は前記訓電に基いて在外公館が借り受けた借入金については単に確認的意義を有するに過ぎないことになる。ただ被告としては、在外公館の借入によつて被告が返済の義務を負担するに至つた借入金についても、貸主、借り入れた公館、借り入れた現地通貨表示の金額等を確定しなければ、予算上の措置をとつて返済することができない道理であるから、この確認手続も手続上の意義を有するわけである。

三  そこで、次に本件貸金の換算率に関する約定について考察する。

1  証人福岡陽道、木下武之助、安藤直明及び安藤栄次郎の各証言並びに原告本人尋問の結果によると、喜多総領事が昭和二十年九月上旬頃伊関総務課長とともに青島日本人会時局特別処理委員会の委員達と面会して資金の借入につき協力を要請したとき、木下が原告に対して青島総領事館に資金を貸与してやつてもらいたいと勧誘したとき、喜多総領事が朝鮮銀行青島支店に在留邦人からの資金借入の事務を委任したとき及び原告が朝鮮銀行青島支店で青島総領事に連銀券百万円を貸与する手続をとつたときのいずれの場合においても、連銀券と日本円との換算率について具体的な話合が全然行われなかつたことが認められる。

2  原告は、本件貸金の換算率については、貸与の連銀券と同額の日本円を支払うという黙示の約束が原告と青島総領事との間で結ばれていたと主張し、その根拠として連銀券の発行当時における日本円との公定交換率が一対一の割合であり、その後この交換率が公式に変更されたことが全然なかつたこと、青島においては終戦の前後を通じて実際上も以上の交換率をそのまま適用して取引が行われていたこと及び本件貸金の際原告と喜多総領事とがこの交換率を念頭において契約を結んだことを挙げている。このうち、連銀券の発行当時における日本円との公定交換率が一対一の割合であつたことは当事者間に争がないけれども、証人福岡陽道、伊藤愿及び安藤直明の各証言並びに原告本人尋問の結果(但し、証人福岡陽道の証言及び原告本人尋問の結果は、後記の信用できない部分を除く。)によると、連銀券と日本円との公定交換率なるものは、華北政権が作られた際その代表者からの要請によつて日本政府が認めた取扱に過ぎないのであつて法律的根拠を有するものではなく、従つて終戦後同政権が倒れた後も引き続いてこの交換率がそのまま維持されるかどうかについては青島では全然見とおしも立たない状態となつたこと、終戦後は僅かに公用で連銀券が使用される場合例えば引揚邦人の携行資金の換算の場合等に当つて以上の交換率が適用されていたにとどまり、それ以外には青島から日本内地に、又日本内地から青島に送金する途もなくなつたこと、連銀券を日本円と交換することもできない状態で、連銀券と日本円との交換率なるものも一般的には存在しなくなつたため、青島で総領事に連銀券を貸与したものも、終戦前の公定交換率によつて返済を受けるこができると考えるものはほとんどなかつたことが認められる。証人福岡陽道、木下武之助及び安藤栄次郎の各証言並びに原告本人尋問の結果のうち以上の認定に反する部分は信用できず、ほかにこの認定を左右するに足りる証拠はない。従つて、原告のこの主張は失当である。

3  被告は貸与した連銀券について後日政府の決定する交換率によつて日本円で返済するという約束があつたと主張するが、この点に関する証人伊藤愿の証言は信用に値しない。のみならず、連銀券が当時青島で通用していた貨幣であることは当事者間に争がないから、原告が連銀券によつて日本に送金することは不可能であり、又持帰りを許される金額に制限があつたとはいえ(当時青島から持帰りを許される金額に制限のあつたことは公知の事実である。)、連銀券を貸与せずに保有しておれば引揚までの間当然他の用途に使うことができたはずであるから、原告が換算率の決定を無条件で日本政府に一任するほど連銀券の価値を極めて低く評価していたものとはとうてい考えられない。しかも、およそ金員の貸借に当つてその返済率が後日返済義務者の手によつて自由に決定されることを貸主が承知するというようなことは、たとえ国が返済義務者である場合においても、容易に考えられないところであるから、被告のこの主張は採用することができない。

4  そこで、本件貸借に当つて換算率につき具体的な話合をしなかつたという貸借当事者の態度が換算率の決定についてどんな意味をもつか、いいかえれば、この態度によつて換算率につきどのような合意が成立したとみたらよいかは、更に本件貸借当時青島において一般に連銀券がどんな価値を有するもの又有すべきものと考えられていたか、原告及び喜多総領事がこの点についてどのような考を抱いていたかということを探究した上で決すべきであろう。

証人福岡陽道、木下武之助、伊藤愿、安藤直明及び安藤栄次郎の各証言(但し証人伊藤愿の証言は後記の信用できない部分を除く。)並びに原告本人尋問の結果を総合すると、次の事実が認められる。

青島では昭和二十年三月頃から次第に物価が騰貴し、それとともに連銀券の価値は漸次下落し、そのため終戦直前から青島の各商店では個々の値で取引が行われていた。そこで終戦前青島から日本内地えの送金については、その額に制限を加え、或いは業者から相場の変動による差益を積み立てさせて公債に振り込ませる等の措置が講じられ、連銀券は実際上日本円の何分の一にしか評価されていなかつた。そこで終戦直前青島でも華中地区と同様調整金制度を実施するよう大蔵省から青島総領事館に対して指示があり、又一部の銀行にも調整金制度に関する書類が送付されたが、その実施細目に関する指示が到着しなかつたので、この制度は遂に実施されず、その代り青島から内地に送金する人から個々的に過剰利益を提供させるという方法が採用された。ところが、終戦と同時に青島では電信も正規には到着しない程情勢が混乱し、且つ、食料品の買い集め等のため連銀券の価値下落の傾向が一層甚しくなり、この状態は日本内地における日本円の価値下落の傾向よりも著しかつた。青島では終戦後日本内地との連絡が途絶えた結果、日本円と連銀券との価値の比較を正確に把握することは不可能な状態であつたが、米ドルを通じての闇相場から見て連銀券の価値が日本円の価値よりも非常に下落していたことは一般に知られていたところであり、本件貸借当時青島在留邦人の大部分は連銀券の価値について物価の面から考えて或程度の疑問を抱いていた有様であつた。しかも、一方において連銀券は日本が操作して発行されたものであつて、終戦後はどんな運命をたどるか青島では見とおしを立てることが全然できなかつた。従つて、青島総領事に対して連銀券を貸与した者ないし貸与しようとした者も、そのほとんどが日本内地の事情も連銀券の将来も分らなかつたため、その返済の比率についても判然した見解を抱くものはなかつたが、ともかく何らかの合理的な比率に基いて返済されるものと考えていたのであつて、原告もその例に洩れるものではなかつた。他方、青島総領事側においても、借用金がどの程度の比率に従つて返済されるかを確言することはできなかつたが、前記訓電に従つて借り入れた借用金は何らかの合理的な比率に従つて返済が行われるものと考えていた。

証人伊藤愿の証言のうち以上の認定に反する部分は信用できないし、ほかに以上の認定を動かすことのできる証拠はない。以上認定した事実と原告及び喜多総領事の間で本件貸借に当つて換算率につき具体的な話合が行われなかつたという事実とをあわせ考えると、本件貸借の際原告と喜多総領事との間で本件貸金は何らかの合理的な換算率によつて返済されるという黙示の合意が成立したものと解するのが相当である。

四  ついでに、本件貸金の弁済斯について考察しておく。

1  証人木下武之助及び安藤栄次郎の各証言並びに原告本人尋問の結果によると、本件貸借に当つて本件貸金は原告が日本内地に帰還したのち速かに返還するという約束が成立していたことが認められ、この認定を動かすに足りる証拠はない。

2  そして、原告が昭和二十一年二月十五日内地に帰還したことは原告本人尋問の結果により明らかであるが、証人木下武之助の証言によると、木下が原告よりも先に内地に帰還し、昭和二十一年一月十五日頃青島在留邦人を代表して外務省に対し、本件貸金を含め青島総領事が前記訓電に基いて邦人から借り受けた借用金の返還を求めたことが認められる。そして、原告が内地帰還後直ちに木下の前記要求に同調してしばしば被告に対して本件貸金の返還を迫つていたことは、本件口頭弁論の全趣旨によつて明白であるから、本件貸金の弁済期は昭和二十一年二月十五日に到来したとみるのが妥当であろう。

五  さて、本件貸金について、原告と喜多総領事との間で、貸与の連銀券を何らかの合理的な換算率に従つて日本円で返済するという合意が成立していたことは既に認定したとおりであるが、連銀券と日本円との換算率の決定に当つて両者の間に為替相場がある場合には弁済期における為替相場を基準とすることが最も合理的である。しかしながら、本件においては、青島において連銀券が昭和二十一年一月から同年六月までの間昭和二十一年十一月二十一日国民政府の公布した偽連銀票収換弁法によつて連銀券五対法幣一の割合で法幣と交換され且つこの法幣は上海において昭和二十一年二月当時法幣二十万円につき米ドル一ドルの価値を有していたことが、原告本人尋問の結果並びに前記乙第三号証の二と原本の存在及び成立に争のない乙第六号証及び乙第八号証の四によつて認められるにとどまり、ほかに連銀券と日本円との間の相場を決定することのできる資料はない。従つて、本件においては連銀券と日本円との間に為替相場その他明確な相場を発見することができないから、別途の基準によつて換算率を決定せざるを得ないのであるが、かような場合には、弁済期におけるそれぞれの通貨の購買力を比較して換算率を定めるのが合理的であると考えられる。この点に関して、原告は、換算率を決定するには貸借時における現地通貨の購買力と弁済期における日本円の購買力とを比較するのが合埋的であると主張するけれども、本件貸借に当つて連銀券と日本円との購買力の比率が貸借後弁済期までの間に変動することまでも考慮に入れた上で貸借が行われたと認めるに足りる資料はない。しかも、原告の主張は結局貸主が弁済期において貸与時の現地通貨の価値と同じ価値を有するだけの日本通貨の返済を受けるべきであるということを根拠とするものであるが本件貸借においてそのような特殊な見方をしなければならない合理的な理由は別段見当らない。むしろ、弁済期の連銀券百万円と同じ購買力を有するだけの日本円の返還を受けることが、本件貸借に当つて期待されたと見るほうが、さきに認定した本件貸借の際の事情に照して妥当な見方であると考えられる。

六  そして、原本の存在及び成立に争のない乙第七号証の二、三及び同号証の七によると、本件貸金の弁済期である昭和二十一年二月十五日には北京において連銀券三千円で米一キロが購入できたこと及びその頃日本内地では米の闇価格が一升金六十七円三銭一キロ金四十四円六十八銭であつたことが認められ、この事実によると本件貸金の弁済期における連銀券の購買力と日本円の購買力との比率は一対六十七であつたとみるのが相当である。

もちろん、貨幣の購買力を考えるに当つて、前示のとおり米の価格のみに根拠を置くことは、米に対するし好が華北地区と日本内地との間で多少差異があること、米の生産に当つて投下される資本、労働力等の点でも華北地区においては日本内地におけるのと同一と考えることは危険であること等に鑑みれば、必しも正確とはいえないかも知れない。しかも、連銀券の購買力を考えるに当つては、北京における価格ではなく青島における価格について検討すべきであることはいうまでもあるまい。従つて、当裁判所は前示の比率をもつて最も正確なものであるとする積りは毛頭ない。しかしながら、本件において提出された資料によつて認められる事実のうち、連銀券と日本円との購買力の比較に当つて基礎としうるものは結局前認定の事実だけしかないのである。(前記乙第七号証の二、三によると昭和二十一年二月当時における米の配給価格が一キロ金六十六銭五厘であつたことが認められるけれども、当時米の配給は極めて僅かしか行われなかつたことは公知の事実であるから、この配給価格をもつて日本円の購買力を算定する基礎とすることはできない。)その故、本件においては結局前示の比率をもつて満足する以外に途はないのである。

従つて、本件貸金の換算率は、連銀券六十七対日本円一の割合であり、原告の貸与した連銀券百万円をこの割合に従つて日本円に換算すると一万四千九百二十五円となり、被告は同金額を原告に弁済すべき義務があることになる。

七  被告は、本件貸金は実施法の定めるところに従つて返済すべき義務があるに過ぎないと主張し、実施法は、審査会法所定の借入金で且つ同法所定の確認手続を経たものについては、連銀券百円に対して日本円一円の割合で換算した金額の百分の百三十に相当する金額を返済すれば足りると規定している。本件貸金が審査会法所定の借入金に当ることは既に判断を加えたとおりであるから、実施法は被告の本件借入金返済義務に以上の制限を加えたことになり、原告はこれをもつて憲法違反であると抗争するので、その当否を判断する。

被告は、在外公館等借入金の返済は、それが外地において外貨で借り受けた金員を内地で邦貨をもつて支払うことになるため外国為替管理法所定の大蔵大臣の許可を必要とし、実施法はこの大蔵大臣の許可に代るべき性質を有するものであるから、実施法において借入金返済義務に制限を加えることは差し支えないと主張する。なるほど、外地で外貨をもつて借り受けた金員を内地において邦貨で返済するについては、昭和十六年法律第八十三号外国為替管理法第一条第四号、同年大蔵省令第十号外国為替管理法施行規則第十一条第一項第二号により大蔵大臣の許可が必要であり、この許可なくして行われた行為は昭和二十年勅令第五百七十八号「昭和二十年勅令第五百四十二号ポツダム宣言ノ受諾ニ伴ヒ発スル命令ニ関スル件ニ基ク金、銀又ハ白金ノ地金又ハ合金ノ輸入ノ制限又ハ禁止等ニ関スル件」第一条第二項によつて無効とされていることは被告所論のとおりである。しかしながら、前記甲第三号証の二によると、前記のとおり外務大臣が各在外公館に対して訓電を発し、在留邦人の引揚救済に要する費用は在留邦人からの借入等便宜的方法によつて調達支弁するよう命じた際、この訓令に基き在外公館が外地で外貨をもつて借り入れた金員を内地において邦貨で返済することについて大蔵省事務当局から外務省の係官に対して同意が与えられた事実を認めることができる。この事実によると、外務大臣が前記訓電を発した際大蔵大臣において、この訓電に基いて現地通貨で借り受けた金員を日本円で返済するについて許可を与えたものと推定することができ、この推定を破ることのできる反証は全くない。してみると、喜多総領事が前記訓電に基いて原告から借り受けた本件借入金の返済については、本件貸借の際既に大蔵大臣の許可があつたといわなければならない。従つて、実施法が借入金の返済額について制限を加えることが適法かどうかを論ずるについては、外国為替管理法所定の大蔵大臣の許可云々ということは、少くとも外務大臣の訓令に基く借入金に関する限り、その論拠とはなり得ないのである。

ところで、被告の本件貸金返還債務は喜多総領事が原告から本件貸金を借り受けたときに成立したものであつて、審査会法、準備法及び実施法の制定によつてはじめて被告が本件貸金の返還義務を負うに至つたものでないことは、さきに指摘したとおりである。してみれば、実施法が本件貸金の返済額を制限することは既存の財産権を侵すものであつて、かようなことが許されないことは明らかである。従つて、実施法のうち連銀券と日本円との換算率を定めた部分は、本件貸金に関しては、財産権の不可侵を保障した憲法第二十九条第一項に違反する無効の法律であるといわなければならない。

八  被告は、実施法所定の返済額の制限が憲法第二十九条第二項の規定により合憲であると主張する。この規定は将来発生する権利についてその内容を公共の福祉に合致するよう規整することを定めるのみならず、既存の財産権についても公共の福祉のために制限を加えることを許容するものと解せられるのであるが、同条第三項において私有財産を公共のために用いるには正当な補償をすることを要するものとしている点からみれば、法律により既存の財産権を制限するためには、原則としてそれによつて権利者が被る損害に対する救済を与えることを必要とするものといわなければならない。従つて法律により既存の金銭債権関係について債務者の返済額を制限する場合にも原則として、債権者がその制限によつて失つたものに相応する救済を与える必要があるわけである。ところが、実施法による返済額の制限にあつては、これにより貸主が被つた損害について何らの対策も講じられていないから、実施法の措置は、以上の原則的観点よりすると、憲法第二十九条第二項の規定によつても許されないことになるわけである。

もつとも、金銭債権について債権者に対する救済を与えずに返済額を制限するという立法的措置が許される場合がないとはいえまい。しかし、それはかような制限をしなければ国民の大多数の幸福が侵害されるか、国家財政に破たんを生じ又は国民経済が破壊されるに至る程度の強い公益上の理由がある例外的な場合に限られると解される。しかもそれは国民の法の下における平等を害しない範囲において許されるに過ぎない。ところで、実施法によつて返済額を制限された債権は、返還義務者が被告である債権にとどまり、この返済額を制限しなければ国民の大多数の幸福が侵害されるというような事情は、直接には考えられないし、またこの借入金の返済額を制限しなければ国民経済上破壊的影響がもたらされるという事情も全く認められないのである。

九1  被告は、戦時補償の打切その他太平洋戦争に直接関連して政府又は政府に準ずるものが負担した債務について、課税その他の措置がとられたこととの均衡を考えれば、在外公館等借入金の返済額を制限することは適切妥当な措置であると主張する。しかし、本件借入金は太平洋戦争の遂行に直接関連して日本政府が負担した債務ではなく、戦争終了後在留邦人の引揚救済費等にあてるためにされた貸借から発生したものであつて、いわば終戦処理のために必要とされた借入金である。従つて本件借入金に対して戦時補償債務に対する措置と同一の措置をとらなければ公平を欠くというわけのものではない。

2  次に被告は、在外公館等借入金について内地での支払が認められることは実質上外地財産の一部を内地に持ち帰つたのと同じ結果になるから、この借入金の返済額を制限することは引揚者間における被害の公平を計るために必要且つ適切な措置であるという。しかしながら、引揚者のうちで在外公館等借入金債権を有する者とこれを有しない者とを均等化するためにその債権を制限するとすれば、このような措置は憲法第二十九条第二項によつても許されないものといわなければならず、両者の均衡はむしろ社会政策的立法によつて貧困な引揚者の救済手段を講ずること等によつて保持すべきものである。のみならず、平和条約第十四条によつて日本国民が喪失した在外財産についでも、被告がこれを補償することは望ましいことであり、しかも日本国外及び旧海外領土において被告が負担した債務を弁済するについては、何ら法律上の制約はないのである。なお、旧海外領土又は旧占領地域からの引揚者は在外公館等借入金債権を有する者であつても、内地における戦災者に比較して戦争による被害が大きかつた(このことは公知の事実である。)のであるから、これと内地居住者とを比較して負担の公平を論ずることは酷に失するといつても過言ではあるまい。

3  次に被告は、在外公館等借入金は、貸主を含む在留邦人の共益費用たる在留邦人の引揚援護の費用にあてられたものであるから、とれについて形式上在外公館による借受という形がとられたとしても、その実質的負担を被告、従つて一般国民に無条件で転嫁することは不当であると抗争する。しかし、我国の敗戦のために旧海外領土又は旧占領地から引き揚げて帰国せざるをえなくなつた国民が帰国の便もないまま困惑しているときに出迎えの船を差し向ける等帰国の便宜を計り、又帰国までの生活費にこと欠く者のある場合にこれに救済の手を伸べることは、単に余力のある海外在留邦人のみに課せられる義務ではなく、日本国民全体が同胞愛に基いてかような道徳的責任を負担していると考えられる。この点について内地居住者と海外在留邦人との間に差異の生ずべきものではあるまい。むしろ敗戦の結果国民がその国民であるが故に旧海外領土又は旧占領地において生命身体の危険にさらされている場合においては、少くとも被告がこれを保護する政治的道徳的義務を負うものと解するのが相当である。今次の敗戦の結果旧海外領土又は旧占領地から内地に引き揚げる国民を救済するために、日本政府が幾多の外交的、国内的措置を講じたことは公知の事実であつて、これらの措置は前記の政治的道徳的義務の履行としてされたものと考える。本件における外務大臣の訓電も日本政府がこの義務を果すために在外公館に対して借入その他適宜の措置によつて在留邦人の引揚救済を計るべきことを指令したものとみるのが妥当であろう。

4  なお、被告は本件借入金は在外公館以外のもの、例えば邦人自治団体等が在留邦人の引揚援護の費用として借り受けた金員と実体を同じくするにもかかわらず、本件借入金については被告が約旨どおりの支払をしなければならないとするのは不当であるというけれども、在外公館以外のものが在留邦人の引揚援護の費用として借り受けた金員についても借主が約旨どおりの弁済をする義務を負うのである。もしこれが支払えない場合には別箇に救済の手段を考えるのが相当であつて、被告が在外公館の借入金の返還を拒否ないし制限する理由とはならないであろう。

十  最後に、被告は、本件貸金について実施法の適用がないとしても、本件貸金契約については外国為替管理法所定の大蔵大臣の許可がないから被告に弁済の義務はないと主張するけれども、本件貸金の返済について既に大蔵大臣の許可があつたと認められることはさきに説明したとおりであるから、被告の主張は容れることができない。

十一  以上の理由によると、被告は原告に対して金一万四千九百二十五円及びこれに対する弁済期の後である昭和二十二年二月一日からその支払のすむまで民法所定の年五分の割合による遅延損害金を支払う義務があることになるわけであつて、原告の本訴請求は以上の限度において正当である。よつてこの部分は認容するが、その余は失当であるから棄却し、訴訟費用の負担について民事訴訟法第九十二条第一項但書を適用して主文のとおり判決する。なお、仮執行の宣言については、これを付するのが相当とは認められないから、この申立を却下する。

(裁判官 古関敏正 田中盈 山本卓)

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